付録解説:親鸞聖人のご生涯
【親鸞聖人のご生涯】
親鸞聖人(1173〜1262)は、浄土真宗の宗祖である。激動の時代に生まれ、90年の生涯を通じて本願念仏の教えを説き広められた。以下、年代順にその足跡をたどる。
―――――
【誕生と幼少期】(1173年〜1181年)
■承安3年(1173年)4月1日
京都日野の里(現・京都市伏見区日野)にて誕生。父は皇太后宮大進日野有範、母は吉光女(源氏の出とされる)。幼名は「松若丸」と伝えられる。
日野家は藤原北家に属する堂上公家の家柄であった。親鸞聖人が生まれた時代は、「保元の乱」(1156年)「平治の乱」(1160年)などの戦乱が続き、公家から武家へと政権が移りゆく激動期であった。
■治承元年(1177年)頃 4歳
父・日野有範が亡くなる。
■養和元年(1181年)頃 8歳
母・吉光女が亡くなる。幼くして両親を失い、伯父の日野範綱に養育される。
―――――
【得度と比叡山修行】(1181年〜1201年)
■養和元年(1181年) 9歳
伯父・日野範綱に伴われ、青蓮院にて慈円(後の天台座主)のもとで得度。僧名「範宴」を授かる。その後、比叡山延暦寺に登り、横川を中心に修学に励む。
■比叡山での20年間
天台の教学と修行に打ち込むが、どれだけ学問と修行を重ねても、煩悩を断ち切り悟りを開く道を見出すことができなかった。苦悩の日々が続く。
―――――
【六角堂参籠と法然上人との出遇い】(1201年)
■建仁元年(1201年) 29歳
20年間の比叡山での修行に行き詰まりを感じ、下山を決意。聖徳太子の創建と伝えられる京都六角堂(頂法寺)に百日の参籠を始める。
■六角堂での夢告
参籠95日目の暁、救世観音(聖徳太子の化身とされる)より夢告を受ける。この夢告が、法然上人のもとを訪ねる契機となった。
■法然上人への入門
六角堂参籠の後、吉水の草庵に法然上人を訪ね、その教えに帰依する。「ただ念仏して、弥陀に助けられまいらすべし」という教えに出遇い、20年来の苦悶が晴れた。以後、法然上人を「よきひと」と仰ぎ、生涯の師と定める。
親鸞聖人は後に、この出遇いを「雑行を棄てて本願に帰す」と述懐された。
―――――
【結婚と承元の法難】(1204年〜1207年)
■元久2年(1205年)頃 33歳
法然上人より『選択本願念仏集』の書写と、法然上人の真影に讃文を記すことを許される。これは門弟としての深い信頼の証であった。
■結婚
越後介(新潟県副知事に相当)三善為教の娘・恵信尼と結婚。結婚の時期については、京都時代とする説と越後流罪後とする説がある。
■承元元年(1207年)2月 35歳
「承元の法難」(建永の法難とも)が起こる。
後鳥羽上皇に寵愛されていた女官(鈴虫・松虫と呼ばれた)が、法然上人の弟子住蓮房・安楽房らの念仏会に参加して出家したことが上皇の怒りを買い、住蓮房・安楽房ら4人が死罪、法然上人・親鸞聖人ら8人が流罪となった。
法然上人は土佐(後に讃岐に変更)へ、親鸞聖人は越後国国府(現・新潟県上越市)へ流される。このとき僧籍を剥奪され、「藤井善信」という俗名を与えられた。
親鸞聖人はこれを機に「愚禿親鸞」と名乗り、「非僧非俗」の立場を宣言された。
―――――
【越後時代】(1207年〜1214年)
■越後での生活
流罪先の越後国府で、念仏者として民衆の中で生活する。在家の生活を送りながら念仏の教えを伝え、「非僧非俗」の立場を実践した。
■子女の誕生
恵信尼との間に子供をもうける。記録に残る子女は、小黒女房、慈信房善鸞、信蓮房明信、益方大夫入道有房(道性)、高野禅尼、覚信尼の6人。また、最初の妻との間に範意(即生)という男子がいたとされる。
■建暦元年(1211年) 39歳
流罪が赦免される。ただし、しばらく越後に留まる。
―――――
【関東布教時代】(1214年〜1235年頃)
■建保2年(1214年) 42歳
妻子とともに越後を発ち、関東へ向かう。信濃(長野県)、上野(群馬県)を経て、常陸国(茨城県)に入る。
■下妻・小島の草庵
常陸国下妻の小島に草庵を結び、約3年間滞在。この地で布教活動を開始する。
■稲田の草庵(1217年頃〜) 45歳頃
笠間郡稲田郷の領主稲田頼重に招かれ、「稲田の草庵」を結ぶ。以後約20年間、この地を拠点に精力的な布教活動を展開する。
■元仁元年(1224年) 52歳
主著『教行信証』(『顕浄土真実教行証文類』)の草稿が完成。真宗十派では、この年を「立教開宗」の年としている。ただし、親鸞聖人は生涯この書の推敲を続けた。
■関東での門弟
関東布教の約20年間で、多くの門弟が育つ。性信、真仏、顕智、蓮位らが知られる。門弟は関東各地に広がり、後に「二十四輩」と呼ばれるようになった。
―――――
【帰洛と晩年】(1235年頃〜1262年)
■嘉禎元年(1235年)頃 63歳頃
関東での20年余りの布教を終え、京都に帰られる。帰洛の理由として、『教行信証』完成のための文献資料が関東では不足していたことが挙げられる。妻・恵信尼、末娘・覚信尼らとともに京都へ戻る。
■京都での著述活動
京都に戻った後も、精力的に著述活動を続ける。
・『浄土和讃』『高僧和讃』の撰述
・『教行信証』の加筆・修正
・門弟への消息(手紙)の執筆
■建長5年(1253年)頃 81歳頃
恵信尼が、父から譲られた所領の管理のため越後へ帰る。以後、二人は別居のまま、手紙のやり取りを続ける(「恵信尼消息」)。
■建長8年(1256年)5月29日 84歳
「善鸞義絶事件」。
関東の門弟の間に異義が広がり、混乱を鎮めるため嫡子・善鸞を関東へ派遣した。しかし善鸞は「父・親鸞から秘かに伝えられた教え」と称して異説を唱え、門弟をさらに混乱させた。親鸞聖人はやむなく善鸞を義絶(親子の縁を切る)された。
■正嘉2年(1258年) 86歳
『正像末和讃』『尊号真像銘文』を撰述。
■弘長2年(1262年)11月28日 90歳
京都・押小路南、万里小路東にある実弟・尋有の住む「善法院」にて入滅。臨終は、尋有や末娘・覚信尼らが看取った。
遺骨は、鳥辺野北辺の「大谷」に納められた。後に、この地に廟堂が建てられ、これが現在の東本願寺・西本願寺の起源となる。
―――――
【親鸞聖人の主要著作】
■『教行信証』(顕浄土真実教行証文類)
主著。教・行・信・証・真仏土・化身土の六巻からなる。元仁元年(1224年)頃に草稿が成り、生涯推敲を続けた。国宝「坂東本」が現存。
■『三帖和讃』
『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』の総称。和語で讃歌の形式により教えを述べたもの。
■『正信念仏偈』
『教行信証』行巻の末尾にある偈頌。浄土真宗で日常的に読誦される。
■『唯信鈔文意』『一念多念文意』『尊号真像銘文』
難解な漢文の教えを、一般の人にも分かりやすく和文で解説した著作。
■消息(手紙)
関東の門弟に宛てた多くの手紙が残る。「末灯鈔」「親鸞聖人御消息集」などに収められている。
―――――
【親鸞聖人と歎異抄】
『歎異抄』は、親鸞聖人の直接の著作ではなく、門弟の唯円が、聖人の言葉や教えを書き留めたものと伝えられる。前半(第一条〜第十条)は親鸞聖人の語録、後半(第十一条〜第十八条)は当時広まっていた異義への批判からなる。
本書は、親鸞聖人入滅後、聖人の教えと異なる解釈が広まることを歎いた唯円が、後世の人々のために記したものである。